「努力」をし続けることには、大きな意味があります。努力をすることで、人は成長します。有名なアスリートや著名人がなしえた数々の業績は、多くの努力が結実した結果といえるでしょう。
しかし、それらの業績は、一般的には「才能」「成功事例」といったカテゴリで紹介されることも多いですよね。よって、「自分ら一般人には関係ない」とひとくくりにしてしまうことも多いでしょう。
そうすると、努力をする意味やモチベーションが低下してしまいます。現に、努力をあきらめてしまって、現状維持で過ごしたいと感じている人も多いのではないでしょうか。
そこで今回は、努力に関する有名な言葉を3つ取り上げ、努力をする意味を考えていきます。今回ご紹介する名言はどれも、「間違った解釈」をされてしまっていることの多い名言ですが、その間違いを修正しつつ、「本当の努力とは何か?」を学んでいきましょう。きっと、努力の「意味」が理解できるはずです。
Contens
「努力」に関する3つの名言
(1)「井の中の蛙大海を知らず」-『荘子』
狭い見識にとらわれて、他に広い世界があることを知らないで、自分の住んでいるところがすべてだと思い込んでいる人のことをいう。小さな井戸の中に住む蛙は、大きな海があることを知らないという意から、物の見方や考えが狭いことを批判する場合に多く使われる。(引用:「故事ことわざ辞典」)
この名言は、紀元前369年以降の中国の思想家、荘子の著書とされる『荘子』の内容のひとつ。近代以降の日本で、この名言に下の句「されど天の高さを知る」を付け加える「パロディ」もありましたが、「詠み人知らず」であり、原典にはありません。
努力をすることは、自らの知見、スキルを高めることや、自分の組織の課題に対する取り組みなど様々でしょう。なぜ、そのように努力をするのかと問えば、そこには必ず「広い視野でものごとを見る」という意識があることが理解できます。
私たちが努力をする意味は、蛙のように自分の範囲だけに収まらず、「外の世界」「外の視点」を常にもたらせる存在であるよう、常に邁進(まいしん)することです。すぐに成果が出なくても、今の自分や周囲の環境を外から見て、足りないものを補うことは、「生きる」うえで大切なことなのです。
広い視野を持つためには、積み重ねとしての「努力」が不可欠なものであることを荘子は教えてくれます。
(2)「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」-発明家・エジソン
彼の「Genius is one percent inspiration, 99 percent perspiration.」という発言を、日本語では「天才は1%の霊感と99%の発汗」と翻訳され、それが様々な人を介して現在の「1%のひらめきと99%の努力」という表現になりました。
ただし、本当にこの名言が彼の言葉であるかどうかの明確な証拠はないとのことです。
彼は「白熱電球」を発明したとして知られていますが、実際のところ「白熱電球」はジョゼフ・スワンが発明したとされ、「電話機」は、グラハム・ベルが発明者とされることに最後まで納得していませんでした。
このように彼は、「失敗」「困難」を幾たびも乗り越えることになりましたが、後世に残した発明家としての業績は絶え間なく語り継がれ、今もその業績は私たちの生活に大きな影響を及ぼしています。
その点、彼のように「失敗」や「困難」を乗り越え、努力し続けることは決してムダなことではなく、常に継続して何かに没頭することの大切さを、その生涯を通して示してくれた、ということができます。
そういう意味では、上記の名言が実際にあったのかどうかはさておき、その彼の業績と、業績に至るまでのプロセスから私たちは「99%の努力」をあきらめるべきではないことが分かります。
もしあなたに「実現したいこと」があるのであれば、その努力を惜しむべきではありません。
(3)「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云えり。」-『学問のすゝめ』
『学問のすゝめ』で述べられている福沢諭吉の言葉です。一般には、「人は皆平等だ」という意味が込められていると解釈されていますが、当時(明治維新以以後の時代)の時代背景を考えると、そうではないことが分かります。
ここで、「されども~」以降の原文を見てみましょう。
されども今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。
(引用:福沢諭吉『学問のすゝめ』)
今(明治)の時代は、一応「人はみな平等」ということになっているが、実際世の中を見ていると「かしこい人」もいれば、「おろかな人」もいる。貧富の差もあるし、前近代的な身分関係がまだ無くなっていない、人の「差」はまだ埋まっていないのだ…ということを彼は述べています。
また、その差はどこから生まれてくるのかも彼は文中で明記しています。
その次第甚だ明らかなり。実語教に、人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。されば賢人と愚人との別は、学ぷと学ばざるとによって出来るものなり。(引用:上記に同じ)
つまり、その人と人の「差」は、学問をしているかしていないかの違いであるということを、彼は述べています。一応概念上は、「人は平等」と言われているけれども、現実的に「差」は紛れもなく存在する。その差から逃げずに立ち向かうこと、そして、立ち向かうためには「学問」が必要であることを示しているのです。
当時と違って、現代社会に生きる私たちには「競争」「格差」があります。そして「努力はそのためだけにするものなのではないか?ならば…」と、失望する人もいるでしょう。人を蹴落とす努力なら、しなくてもいいだろうという意味での「失望」です。
しかし、そうではなく「私たちには何が足りないのか?」そして、「その不足を埋めることは、社会のためになるのではないか?」と考え、実行していく。それこそが、社会で生きる「実践的な学び」であることと考えることもできます。
努力は、誰かと競争し勝つためにあるのではなく「次のステップを目指す」という大きな目的のためにある。そう考えていく視点が、努力をするうえで必要です。
過去の偉人や名言から、「努力の本質」を学ぶ
私たちは、努力することに対して「ネガティブ」な思いを抱きがち。それもそのはず、私たちは「努力を認めてもらうもの」と考えているために、それが叶わないと落胆してしまうのです。
しかし、その落胆に打ち勝ち成果を出した人の言葉を顧みれば、努力とは、「自分」という範囲を超えて、「社会に対するコミットを増やす」ために行うものであることがわかるはず。
多様化複雑化する現代社会の中で見落としがちな、「努力の本質」を再考する必要があるのではないでしょうか。