議員から家業へ。街に根付くリーダーシップのまちづくり。庄司雄介氏インタビュー

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今回は、山形県山辺町で「天然手作り味噌醸造元・お惣菜とお食事の店 ヤマキチ」を営む庄司雄介さんのIKIKATA。

商社マン、町議会議員を経て、家業を継いだ庄司さん。現在、家業の傍ら山辺町のまちづくりイベントの運営・企画を行っています。

過去から現在まで、様々なシチュエーションで自らの仕事にリーダーシップを持って取り組んできた庄司さん。若者がこれからどのように人生を切り開いていくべきかを学ぶことができます。

 

具体的な業務

 

山形県山辺町で「天然手作り味噌醸造元・お惣菜とお食事の店 ヤマキチ」を営んでいます。ヤマキチ味噌の創業は明治35年で、私で4代目になります。

現在の業務は、味噌の仕込み・製造、お惣菜製造販売、ランチ、宴会などを行っています。もともとの家業は明治から続く味噌屋ですが、時代の流れ、顧客ニーズに合わせて業務拡大をしてきました。お惣菜を始めて約40年、食事処を増設して25年になり、こだわりを持ちつつ柔軟に変化し商売をしてきたカタチになります。

味噌に関しては、各家庭ごとに分量を変える委託味噌と店舗販売をしています。店に関しては、おふくろの味をベースに新しいメニューや新商品を考案するということもやっています。

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—家業としてのお仕事のほか、庄司さんは元山辺町議会議員の経歴があります。また、商店街イベントの企画・運営にも携わっていますよね。今回は、それらの活動や仕事も含めて「生き方」を取材させて頂きたいと思います。

 

今の仕事に就いた経緯・キッカケ

 

教職を諦めた学生時代

 

—大学時代は体育教師を目指していたんですよね。

大学での専攻が教育学科だったので、先生になろうと思っていました。でも教員免許は結局取っていません(笑)

なぜかというと、大学4年の時に山形で「べにばな国体」が開催されるということで、それに合わせて県外や地元の周辺地域から俗いう国体要員として様々な教師を採用していて。国体が終わるころには、「体育教師は今後5年は採用しないよ」という感じだったんですよ。

それ聞いて「だめだな」と思って(笑)  地元で体育教師になるのを諦めることにしたんですね。

その後は、就職は「やっぱり東京だ」と思っていたんですけど、どこにも受かんなくて。というのも、自分は中学校からソフトテニスをやっていて、高校も大学も推薦入学だったんです。なので大学時代はソフトテニスが中心で、就職活動どころじゃなくて(笑)

今思えば、なんとかなるだろうと(笑) あまり考えることができていませんでしたね。だから、CMで流れる大手企業を受けに行く、みたいな感じでした。そういう感じで受けていたら、まあ落ちるよねという(笑)

 

サラリーマン時代 —青年会議所での活動—

 

—庄司さんは家業を営みつつ、山辺町商店街のイベント企画・運営にも携わっていますが、そのキッカケは何だったのでしょうか?

大学卒業後、無事に山形の企業に就職することができて、そこで17年間お世話になったんです。その会社員時代に山形青年会議所に派遣されて、花火大会や若者の育成事業に携わることができました。

その時のまちづくりやひとづくりの経験がキッカケで、今のような活動につながっていると思います。

 

町議会議員としての活動

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—サラリーマンから家業へ仕事を変える前、町議会議員として活動されていましたよね。議員になるまでには、どういった経緯があったのでしょう?

家業を継ぐために山辺町に戻ってきたころ、ちょうど議員選挙があるとのことで、周囲の人から「若い人いねがら選挙さ出でみだらいいんねが?」と(笑)

その言葉がまず最初のキッカケですね。政治の世界などには全く興味もなく、全然深く考えてはいなかったんですけど。

改めて町の現状や議員活動などを調べてみたんですが、その当時の議員の平均年齢が約70歳だったり、議員の仕事や活動内容が見えなかったり、町の情報が見えづらかったりと、いろいろと改善が必要だなと。せっかくいい町なんだからもっといい町にできるよなと感じ始めました。

これじゃダメだ、俺の出番だなと(笑) 勝手に使命感もってしまったんですね。

良いのか悪いのかその時のタイミングが一歩踏み出すキッカケになりました。ただ、サラリーマン時代にやっていた青年会議所の活動や「まちづくりとは? ひとづくりとは?」と考えていた経験が活かせるのかなと。そこから、自分が生まれ育った町の現状をなんとかしなきゃいけないな、と思ったんです。

自分は、自分の中でピンときたもの、感性に触れるものがあれば、行動に移さないと気が済まないタイプで「ノリやすさ」「軽さ」とも言えますが、「アクションを起こす」ことが大切だと思います。

もちろん、「周りから言われたからやったんだべ」という人もいましたけど。ただ、キッカケは何でもよくて、そのあとに自分で考え決断して行動することが大事なんですよね。

評論家には誰にでもなることはできますが、行動を起こす人は少ないですよね。その評論をもとに行動すればいいのにと思っちゃいます。やればいいのにと。

 

—議員としての活動を町民に伝えるために、どんな工夫をされていましたか?

自分が直接経験した「何が真実か?」という部分を見て、それを伝えていくことですね。外部評価や、うわさなど色々ありますが、大事なのは自分が直接見てきたことを伝えることだと思います。

 

—町のために最もチカラを入れたことはなんでしょうか?

町の施策として一番チカラを入れていたのは「情報発信」でした。時代の流れに合わせて、紙媒体の情報だけではなく、HPやSNSを使った情報発信の手段を考えていました。

あとは、街に人が流れる仕組みづくりとして、観光にもチカラを入れていました。今は議員ではないですが、一町民として自分の仕事をやっていくうえで「街を盛り上げたい」という気持ちがありますね。

 

街のイベントの企画・運営に携わる

 

山辺町商店街の組織を主体に、毎年イベントをやっていて、その企画・運営に携わっています。プロジェクションマッピングをやったり。ペットボトルイルミネーションをやったり。ラジオもやっています。

 

—議員として活動される以前から、イベントの企画には携わっていたんですか?

まったく(笑)  サラリーマン時代は地域との関わりが薄かったし、退社後間も無く議員という立場にならさせていただいたのでそこからの関わりと家業での関わりが合わさって。いろいろと見えてきたことが多かったので、何とかしなくてはとイベントを立ち上げたり、そういった活動が増えました。

さまざまなイベントなどを企画運営をしている人たちが元気な組織には、やっぱり30代40代の方々が多いです。そのくらいの年齢だと、自分の仕事をしながらでも自分の町を盛り上げる活動をやれる熱意や行動が起こしやすいのかなと。キッカケやタイミングによりますが。

本当は、運営メンバーに20代も30代も40代も50代も各世代がいる体制で、世代を超えてその活動が継続できるのが理想。でもなかなかそうはいかないので、、、自分が20代のころを振り返ってみても、目の前のことに精いっぱいで、町のために何か企画するなんて考えてもいなかったですからね。

庄司 雄介(しょうじ ゆうすけ)1970年4月12日生まれ。46歳 県立山形中央高等学校体育科、日本大学文理学部教育学科卒業後、地元商社に就職する。 17年間のサラリーマン生活を経て、地元の山辺町に戻る。 山辺町議会議員2期、現在は家業の天然手作り味噌醸造元・お惣菜とお食事の店 ヤマキチを営む。趣味は 食う・飲む・遊ぶ、子どものサッカー観戦で一喜一憂すること

庄司 雄介(しょうじ ゆうすけ)1970年4月12日生まれ。46歳 県立山形中央高等学校体育科、日本大学文理学部教育学科卒業後、地元商社に就職する。 17年間のサラリーマン生活を経て、地元の山辺町に戻る。 山辺町議会議員2期、現在は家業の天然手作り味噌醸造元・お惣菜とお食事の店 ヤマキチを営む。趣味は 食う・飲む・遊ぶ、子どものサッカー観戦で一喜一憂すること

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