水産業、花屋、そして言語聴覚士へ 佐々木 類氏の生き方

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今回は宮城県仙台市の泉病院で言語聴覚士をされている佐々木類さんのIKIKATA。

言語聴覚士としては”異質な”キャリアを持つ佐々木さん。

多様な経験の中から生み出されたその考え方には言語聴覚士としての熱い思いがありました。

 

 

具体的な業務

 

言語聴覚士というのは簡単に言うと首から上のリハビリを全て行う職業です。飲み込みから始まって声を出すこと、耳の関係、脳のリハビリまで担当します。また、発達障害とか自閉症とかまでやっている人もいます。

言語聴覚士の仕事は幅広いし、その分知識も必要です。

例えば小児をやっている人は特別支援学校等に介入していてそれを専門にやっていたり、また耳鼻科にいる人は人工内耳を早期から取り組んでいたりなどしていて、一口に言語聴覚士と言っても様々な専門分野がありますし、全く普段の業務が違います。

その中での僕は脳卒中と神経難病等を担当しています。

うちは脳卒中の急性期の患者さんが搬送される病院なので、急性期治療から回復期治療(リハビリ)までを行っています。
また、脳関係でそれとは別に「物忘れ外来」という認知症の方向けの仕事や、訪問リハビリというのもやっていて神経難病の方の在宅でのリハビリも行っています。

 

色々ある仕事の中でも僕が最近力を入れて行っているのは、自動車運転の再開支援です。

これは文字通り、脳の病気等で自動車に乗れなくなった人がもう一度乗れるようにするための支援のことです。

現状、この分野は病院でなかなか制度の説明やリハビリが進んでいないんです。

これまで脳卒中の方は運転が再開できないという常識があって、僕たち言語聴覚士はそれを患者に説明していたんですけど、僕の中でもそのことに迷いがあって。

そんな時にたまたま(自動車運転の再開支援の)勉強会に行って道が開けたんです。これだって思いました。

それから僕の勤務している病院でも運転支援チームを立ち上げて、運転動作のリハビリ支援や運転についての法律、リスクをきちんと教えるということを行っています。

そうするといきなり運転ではなくて適切なステップを踏んでから運転を再開できます。だからちょっと遠回りかもしれないけど、スモールステップが一番近道ということを患者さんに伝えるようにしています。
脳の病気の方が起こす事故で一番多いのは自損事故なんです。
だから、復職と運転再開は別にして考えなければいけない。自動車を常用する人とたまに使う人とでもフォローの仕方が違うんです。

こういう課題は車の性能が上がることで解決できるのはそうなんですけど、車の性能がいくらに上がってもそれを買える人って少ない。

 

—自動車運転の再開支援は一般的に言語聴覚士の方がやるお仕事なんですか?
いや、この仕事のメインは作業療法士なんです。今の病院に必要だと思った仕事に取り組んだのがたまたま言語聴覚士の自分だったというだけで。

運転支援は作業療法士の領域かもしれませんが理学療法士だって言語聴覚士だって、誰でも変わらずに支援が出来る環境が理想ですね。

 

—ではその病院によっても言語聴覚士の担う役割は変わるんですね。

そうですね。完全に分野ごとに分けてやっているところもありますし、うちみたいに1人が複数の分野を担当する所もあります。

 

—言語聴覚士の報酬システムはどういう風になっているんですか?

国から診療報酬として病院に出ます。でも病院勤めの言語聴覚士は固定給ですけどね。そこは会社員と変わりません。塾みたいに開業して自分でやっている人も中にはいますけど。

 

 

今の仕事に就いた経緯・キッカケ

 

ほんとに僕はスッてまっすぐ進んだ人生ではなかった。

僕は新卒の時も、転職の時も、自分のできる範囲でしか仕事を探さなかったんです。

それが今になって自分を足踏みさせた一番の原因だったんじゃないかと思っています。

 

大学生~就職、そして働いて

僕は大学は東京で、卒業してから4年くらいそっちでサラリーマンをしていました。

大学生の時は「自分のできる範囲で、しかも絶対一部上場企業に就職したい」と思って就活をしていたんですけど、全然受からなくて。
僕がその時バイトをしていた築地の水産系の卸売り業者がたまたま一部上場企業で、その会社にギリギリ滑り込んだんです(笑)

入社したその日から正直この仕事でいいのかなという漠然とした不安はあったんですけど、でも半分くらいは必要とされたい、やってやるぞという気持ちだったので精一杯働きました。

その会社で僕はマグロの競りをやっていました。

内容は高く売りたいという港の漁師と安く買いたいお店のマッチングみたいなもので、板挟み状態だったんです。

当然ストレスも多かったんですけど、そんなある日上司がくも膜下出血を発症してトイレで亡くなってるのを見て、この会社に5年も10年もいるのは嫌だなと思いました。

結局その会社は二年半で辞めてしまいました。

 

転職、帰省、言語聴覚士との出会い

その後卸の経験があったこともあって、花の卸売り業者に入って、そこで1年半働きました。

花をやっててすごく楽しかったので、「本気で花をやろう!」とその時になって(笑)

花と言えばフランスしかない!ということで、知り合いが南フランスのトゥーロンにいたこともあってそっちに行こうということに決めました(笑)

その時はまだ東京にいたんですけど、フランスに行くということで東京の家を引き払って、一回実家の仙台に帰ることにしたんです。

それで帰省して、親に「パリに行くから」という旨を話したら大反対されて(笑)今思うと当然なんですけど、親に「冷静になれ」と諭されたんです。

そこで自分のことを見つめ直しました。

そしたらずっとサッカーをやっていて、怪我に苦しめられたことを思い出したんです。

そこから「ならサッカーをやりながら、怪我とかで苦しんでいる子供のリハビリとかをやりたいな」と思ってそれをケアマネジャーをやっている母親に相談しました。

すると母から「ならまず学校に行ってこい」と言われ母校の理学療法学科に見学に行くことになったんです。

でもその学校の方にこのまま試験を受けても受からないと言われたんです。じゃあこの1年何やろうということになって。浪人って今までしたことなくて怖かったんです。

それをその学校の方に話したら「こんなのもあるよ」って紹介されたのが言語聴覚士だったんです。

大学を卒業していれば2年で言語聴覚士の資格を取得できる大卒2年課程というのが言語聴覚士の学校にはあって。それで今の僕の母校となる学校に入ったんです。

 

言語聴覚士の専門学校に入学

学校を見学していく中で出会った言語聴覚士の先生が輝いて見えたんです。

言語聴覚士の仕事はよく分からないけど、この人と一緒に仕事をしてみたいと思える人で。

そこから言語聴覚士の勉強を始めました。

その先生が言ってたのは「言語聴覚士という仕事は人に寄り添う仕事だ」ということで。

僕は今まで板挟みの仕事をしていて、もどかしい思いをしていたので、言われたその一言がすごく響いたんです。

恥ずかしいという気持ちもあったけど、自分がやってこなかった勉強をして自分を変えたいという気持ちがあって、チャレンジをしたくなりました。

そこから入学試験を受けて一度落ちたんですけど、再試験でやっと受かったんです。最後の1枠で(笑)

そして学校を卒業してこうして言語聴覚士になりました。

 

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佐々木 類(ささき・るい) 宮城県仙台市出身。大学を卒業後、東京築地市場の水産系卸商社・大田市場の花の仲卸業社にて営業職を4年間経験。その後、仙台にて言語聴覚士の養成校へ入学。坂総合病院にて5年間勤務後、地元の泉病院へ転勤。現在、脳卒中・神経難病の急性期から回復期、維持期迄を院内では担当。院外では神経難病の訪問リハビリを担当。現在1番力を入れている事は脳損傷者の自動車運転再開支援。 『逃げない、諦めない、投げ出さない。患者さんと一緒に泣いて、笑って生きて行く事をモットーに日々精進』そんなアウトローな仙台の駆け出しの言語聴覚士です。

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